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No. 0074 | November 12th, 2018 | Yama

勝たなくていい、守れりゃいい


いま、毎週月曜日に楽しみにしていることがあります。Netflixで毎週月曜日に更新されているグラップラー刃牙のアニメシリーズ2作目の「バキ」なんですけど、最高です。アニメ1作目も見たんですが、クセの強さがかなり上がっていて、突き抜けた開放感が味わえる。最強を目指す男たちの物語なんですが、キャラクターの個性やセリフが度をこして大げさなので、興味のない人にはギャグになると思われるが、登場人物たちの本気(まじ)さ加減に、本気(まじ)で感動して見ています。特に第20話すごいです。すみません。僕の言葉ではこれ以上書き表せません。これ見てると、忘れている身体感覚を取り戻した気になります。体が熱くなります。いままで使っていたものより太いものが欲しくなり、新しい筆記具を購入しました。書き出しの柔らかさ、はこびの高揚、はらいの快感……! とバキ調に実況したいくらい、文字を書くことで体に血が通うようです。またなんかスポーツでもはじめようか。





No. 0073 | November 10th, 2018 | Koji

プレゼント

海外から届く荷物はなんだか独特な空気を纏っている。
本日スコットランドから届いた荷物は赤いテープがポップで梱包がとてもキュートな仕上がりである。

私的かわいいポイントは4つ。
開け口がない!っと思ったら、ダンボールの上蓋が側面になっていた/納品書が箱の中ではなく、透明ビニール袋に包まれ外側に貼り付けられていた/2次元バーコードがでかい!/テープがペラペラで剥がそうと引っ張ると文字が伸びてしまう

遠い異国の誰かと誰かと誰かの手によって、図らずもキュートな姿になってやって来た荷物の姿は愛おしく、なかなか箱を開けられない。




No. 0072 | November 7th, 2018 | Sei

ノイズ

毛利悠子さんというアーティストが面白いぞと山中君がリンクをシェアしてくれた。
リンク先に飛んでみると、大好きであろう作品たちの写真。

電気で動くという作品の画像を見ながら、あーなんかめっちゃリアルに動きが想像できるー知ってる気がするー。。

待てよ、、毛利さん…ん??…知ってる!てか会ったことある!?

そう、私の儚い記憶からパルコのロゴスギャラリーで働いていたときの想い出が湧き上がってきた。ロゴスで開催した、伊藤ガビンさんの企画「Physical Tempo」で毛利さんの作品があったのだ。

ラジコンのような4輪のボディの上に羽のはたきが合体していて、進んだりバックしたり急に止まったりデタラメに動きながら、ときたま”はたき”がばったんばったんしているというものだった。はず。
生き物みたいだな と、うっとり見とれていた記憶がある。

毛利さんの作品が好きな理由
その一、知っている既製品たちが合体していて新しい姿なのに安心感がある
その二、動きが予想できない
その三、予想できない動きが2つ以上組み合わさっており結果全く予想できない

毛利悠子さんという日本が誇るべきアーティストの方のことを書いておいて、載せる写真ではないのだけど、、
写真は私が昔に作ったものや描いたものだ。私が毛利さんの作品に惹かれる理由が全て詰まっていると気づいたので載せることにする。

世界には愛おしいノイズが満ち溢れていて、そういうものを見つけたり作れたらなあと思うのであった。



No. 0071 | November 6th, 2018 | Shun

招きキャッツ

先週の土曜日に柄にもなく行列に並んだ。明らかに自分史上最長の列に。死ぬほど短気なのでディズニーランドでもこんな長さの列に並んだ記憶はない。(そもそもそんなにディズニーもいかないけど。)

行列の先にあるもの。それはディズニーランドならぬネコムーランド。そう、猫村さんの特別展示。ただ、僕が並んだのは抽選で当たったフィギュアの引き換えのため。並ぶ必要などないはずなのにオペレーションが悪く一般のグッズ販売の列に並ぶことに。途中で運営が変わって若干改善されたが、何だかんだ2時間は並んだ。(開催者が猫村さんの人気を過小評価していたとしか考えられない。アンビリーバボー。)

この俺を2時間も並ばせるとは猫村さん恐るべし…。結果的に手に入れたフィギュアは悪魔的な可愛さで満足しているのだから世話はないのだけれども、意外にも昔から可愛いキャラとか嫌いじゃなくて、幼き頃、当時の自分の背丈よりもはるかに大きな猫バスとトトロのなぬいぐるみが欲しくて、猫バスの足を握ったまま泣き喚いた記憶がある。

ところで、ネコムーランドには持ち運び可能な茶室が展示されていた(結局見れてないけど)。スキーマの長坂さんがデザインしたものだが、あたりまえのように茶室には強い興味がある。山﨑君が書いていたじぃちゃんの仕事部屋(一度だけ僕も行ったことがあるけど、誰もいないのに気配というかオーラを感じるような部屋だった。文字にするとホラーっぽいけど、そういう要素は微塵もないところからも、山﨑君のじぃちゃんの人柄を感じられるのかもしれない。)のように、自分と向き合うというか、内に向かっていくための装置としての茶室は現代にも必要な気がする。(というか、自分も欲しい。お茶は点てずとも精神統一のために。)マインドフルネスとか瞑想たかが流行ってるのもその裏付け。

仕事と理想の人間像の関連についてはあるに決まってるし、そもそも仕事だけが人生であるわけもないし、NHKの『プロフェッショナル -仕事の流儀-』でもあるまいし、めんどくさいしダサいので長々とは書かないけど、茶室(的な空間)で内に向かっていくのは、外に開くためでもある。内と外という二元論的な考え方ではなく、内と外が繋がっている円環状のイメージでとても日本的というかアジア的。

物理的にも精神的にもずっと閉じて内的宇宙と向き合い続ける生き方も素敵だが、それがデザイナーという仕事をしている人の生き方として成り立つかと言えば、それは難しいのではないかとも思う。(山﨑君は外見的にヘンリー・ダーガーとかブルース・ビックフォードになるポテンシャルはあると思うけどね。←めちゃ褒めてる。)

だからと言うか、デザインからアートに転向する人がいるんだろう。Martin MargielaもHelmut Langも、横尾忠則も角田純も。そもそも客観的に見たら、自己肯定の為におぼろげな記憶の中で理想化された祖父を自分と重ねているだけにも見えなくもないし、奇人・変人の類になりきれないなら、精神衛生的に上手くバランスを取る必要があるのなら、精神と時の部屋みたいに完全に閉じて取り組むべき何かを見つけるのがいいのではないでしょうか?

うちの招き猫さん達(未来型と家政婦型)に聞いてみたら、もっと良い助言をくれるかも?



No. 0070 | November 4th, 2018 | Yama

仕事

(No.0066の続き)
祖父がいる仕事部屋の光景に強く影響を受けている。理想をいうと完全に一人で完結することだけを仕事にできたらいいと思うし、自宅の自分の部屋で仕事をするのが一番いい。できればテレビを流しながら。

外にひろがるより、内にこもることを大切にしてきた。そういえば、祖父が何かを主張したり、説いたりしているイメージは記憶にない。記憶の中の祖父のイメージが自分にとっての理想の人間像で、無意識にそれを追い求めてきたのだなと、今更ながらこの文章を書きながら自覚した。

祖父はどういう人だったのだろう。語り合ってみたかったなと思うと、ひどく後悔の念に駆られる。そうだ、もう一度祖父の住んでいた家に行ってみよう。何か残っているだろうか。何か新たな発見があるかもしれない。

前回からなんとなく仕事というタイトルをつけて、何かありそうな気がして祖父のことを思いつくままダラダラっと書いてしまいましたが、発見もあってよかったですが、でも、仕事と人が理想とする人間像っていうのは何か深い関係があるのでしょうか? ちょっとうまく考えられないから、山中くん、なんか思うことあったら話してちょ。


隣の芝

隣の芝生は青い。
では、私は芝生ではなくシャンハイブルーという中国の青レンガを敷き詰めよう。
思えば、小さい頃から自然とそういう方法を選び取ってきていた。

でも気づいたら、ここ最近は芝生を頑張って育てていたような気がする。
芝生育てるとか生まれたときからまじで全く向いていないのに、為せば成るのだ精進せい私と思いながら。

ソニーパークでアートリンゼイのライブを観て、帰りに友人と飲んで、テレビで佰食屋を知って、シャムキャッツと話して、CADで図面を描いて、確認申請の提出に行って、LCDDの洋服をほぼ毎日着て、ほぼ日新聞の新井紀子さんとの対談を読んで、そんな雑多でイッツアライフ!な中で、建築と洋服のことを考えていたら、靄が少し晴れた。

隣の庭の芝生は青くて丁寧な手入れがされていてとても綺麗だけど、うちの庭はイカした青いレンガ敷きで隙間から生えてくる雑草もたまには花を咲かすやつもいて可愛いぜ 遊びに来なよ、的なかんじだわ、といつもより健やかな気分になったのでした。



No. 0068 | November 1st, 2018 | Koji

坂道と自転車と友人と

前回豊島美術館について書きましたが、これにはサイドストーリーがありまして。

豊島ではレンタサイクルで島を周ったのですが、豊島美術館への道がとても景色の良い下り坂でした。坂の上はひらけていて、目の前に海と空、横には段々畑が見える。それらに向かって一気に坂を下る。思わず感嘆の声が出てしまいます。ただ、美術館は坂の上の方にあるのでそれほど下らずに着いてしまうのですが。

昼に美術館に行きましたが、チケットを購入した日であれば何回でも入場できるとのことだったので、夕方の閉館前にもう一度行くことにしました。またも絶景の坂道を下っていると、友人が「このまま下まで行こう!」と言い出しました。「また上ってくるの大変だよ」と言うと「あとのことなんて考えない方がいいよ」と言い行ってしまったのでついていくことに。

すごい速さで風を切り、蛇行する山道を下っていきました。恐怖さえ感じる速さでしたがそのスリルも相まってか、ものすごい爽快感と解放感。終着点は数百メートル下った先の海でした。

友人の言うとおり、瑣末なことなど気にせず、気持ちの赴くままに行動することが大事だなと思いました。そんな教えを得た坂道の話です。

ちなみにその後、私は美術館へ行きましたが、友人はもう2回坂下りを楽しんでいました。(さすがにそこまではできない)




坂の上からの景色は撮り損ねてしまったのですが、代わりに瀬戸内の空気感を。


No. 0067 | October 30th, 2018 | Shun

偉大なブラジル人

先週の土曜日にGINZA SONYPARKで開催されたアート・リンゼイのライブを観た。SONY PARKのイベントをブッキング、ディレクションしている知り合いの方からお誘いを頂いて見に行ったけれど、もともと単独公演も観に行くくらい好きなアーティストなので、フリーライブとは思えないくらいとても贅沢な時間だった。

SONYPARKでのイベントが毎回どれくらいの人が来ているのかわからないけれど、スペースに入りきれないほどの人が集まっていてその人気ぶりも健在でした。エレキギター一本での自由でアバンギャルドなパフォーマンスは凄みに圧倒され、MCなどで見せる愛嬌があって親しみやすい一面とのギャップはズルすぎる。

ライブが始まる前にSONYPARK内のベンチに座っていたら、近くでアート・リンゼイがaiboを愛でていて、何とも微笑ましい光景だった。ライブ中のMCでもaiboの事を話していたし、よほど気に入ったのだろうし、きっと動物が好きなんだろうな。(aiboに関しては、僕自身はちょっとナメていたところもあったが、実際に目にしたら不覚にも可愛いと思ってしまった…。SONYの人、ごめんなさい。)

自由でいることは色々大変だろうけど、アート・リンゼイは見るたびにその尊さと楽しさを見せてくれる。アートは偉大だ。



No. 0066 | October 28th, 2018 | Yama

仕事

たまに思い出すことがある。祖父のことです。
母方の祖父は有田焼の絵付師だった。自宅に四畳半の部屋があってそこが仕事部屋だった。部屋のほとんどを作業スペースが占拠している。余分なスペースはなく、飛行機のコックピットの様だった。たまに思い出すのはそんな部屋の風景。

部屋に入った正面の壁一面は、道具や図鑑が整然と並んだ棚になっている。向かって左側の壁の方に、人が一人入れるくらいのスペースを空けて壁によせられたテーブルがある。祖父がその隙間に入り地べたに座って仕事をしている。その右手に祖父の方を向いて赤いテレビが置いてあり、時代劇が流れている。

祖父が死んだのは小学生のときだったが、仕事部屋に行くのが好きで、部屋を覗く度、判で押したように同じだったこの風景だけを強く覚えている。他は食事のときに居間にいるのをぼんやりと覚えている。仕事部屋か居間、その風景だけで、外出しているイメージなどはまったく記憶にない。(また次回に続きを書きます。)



No. 0065 | October 25th, 2018 | Koji

母型

先日、友人と香川県の豊島と小豆島に行ってきました。
お目当の一つ、アーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛による豊島美術館に行ったのですが素晴らしい空間でした。コンクリートでできた巨大なドーム状の建築で、天井には大きな丸い穴が二つ空いている。そこから太陽の光や風が流れ込み、木々の揺れる音や鳥の声、船の汽笛がドームの中に静かに響いている。

床はいたるところから水が湧き出し、水玉が意思を持った生き物のように動き回っていて、それらが合流したり分離したりしながらゆっくり水たまりに吸い込まれていく様子は、何か目的があるように感じて目が離せなくなります。

内と外の隔たりがない自然と一体化した空間で、包容力というか受け入れられている感がすごい。雨も風も強い日差しも、当たり前のように水玉の水を飲んでいるカマキリやバッタも全て受容されている。これから数十年後、それらを受け入れて空間が受容体としてますます進化していくのではないかと想像すると面白い。

作者である内藤礼さんは「この地上の生というものを知りたい」と言っており“地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか”というのをずっとテーマに持ち続けているそうです。
水玉の動きも、風に揺られる吊り下げられたリボンも、円形に切り取られた空も、普段から身近に感じている生がこの空間を通して見るとより一層純粋で生命力のあるものに感じます。それ自体が祝福であるのかどうかはさておき、少なくとも私が行った際にこの空間の中にあった生は希望しか感じられないものでした。また数年後、数十年後かにぜひ行きたいと思います。



No. 0064 | October 24th, 2018 | Sei

根っこ

大学時代の友人からお知らせをもらって渋谷芸術祭特別展に行ってきた。
渋谷芸術祭が今年で10年目ということで、今までの芸術祭の所縁のある作家の方々の作品が展示されている。

その中で、3週間前に急に展示することが決まった安川さんは”ぱれっと”の工房部門で働いていて、そこで作ったうさぎ型のぬいぐるみが大量に展示されていた。
写真の通り、常軌を逸したぬいぐるみたちは、何かとんでもない雰囲気を纏っている。
“NPO法人ぱれっと”は知的に障がい者のある方の社会参加と自立を目的に開設され、おかし部門と工房部門がある。
工房部門ではぬいぐるみや雑貨を作り、それらを一般販売している。
そこで働いている方達は仕事として”作る”ことをしているので、作品を作っているという意識は全くないらしい。
にもかかわらず、この仕上がり。人によってもかなり違うらしく、特に安川さんのうさぎは個性的に仕上がってしまうらしい。

衣食住は、寒さをしのぎ、飢えをしのぎ、雨露をしのぐものだ。
動物は毛皮という衣服を纏い、(必要であれば道具を使って)食物を得、そして巣をつくって子育てをする。

人間を、人間たらしめているもの。それは道具を使う手でも、言葉を呟く口でもない。人それぞれが持つ、譲れない何かこそ人間を人間たらしめていると我が輩は思う。それが何なのかは人によって違う。しかし、それを失ってしまえば人間でなくなる、自分でなくなる。そんな何かを、人は誰しももっていると思う。 (コラム『狼のみたチベット』太田秀雄/集広舎 より)

人は、衣食住だけでは人でなくなってしまう。人でなくなることをしのぐための行為として、何かを作ったり書きものをしたり買い物をしたりする。根本にある人間の構造をかいま見た、そんな日でした。



No. 0063 | October 23rd, 2018 | Shun

Outsider Cake Shop

先日、何年連続だかわからないくらい連続(この先も未来永劫続くだろうから、いっそのこと殿堂入りとかにしてあげて欲しい)で魅力度ランキング最下位の我が地元・茨城に帰省した際に、妹が連れて行ってくれたケーキ屋さんの様子がすこぶるおかしかった。(お菓子だけに。なんてな!)

話を聞くと、もともとはお隣のつくば市で営業していたケーキ屋さんが、移転に際して名前を変えたということだが、看板は文字通り板に手書きで「ケーキや(仮)」と書いてあるだけ。ショップカードは仮免みたいだし、さらにノボリも写真の通り…。ノボリはちょっと狙い過ぎてる感出ちゃってるけど、狂ってることに違いはない。




なるほど、ゲリラならではの手練れ感。そんな東京の駅のwi-fiくらいビンビン飛びまくるオーラをかわして、恐る恐る店内に入ると、仮設感丸出しの空間に、ショーケース。そしてケースの中にはシンプルだけどいい仕事してますよという感じの美しいケーキ、棚には整然と並べられた焼き菓子。普通のケーキ屋(に限らず全ての商店)では絶対にありえない内装(プラスターボード剥き出し!)ではあるが、不思議と清潔感漂う雰囲気。(良きです!)さらに店内の空気が富士山麓くらいすこぶる澄んでいる。計算して作られたものではないので、なぜ良い感じなのか言葉で説明するのは難しい。ただ、節々から店主の強いこだわりだけが伝わってくる。壁に貼られた求人募集には「パティシエ」と「パティシエール」がしっかり併記してあるし、普通に見えるクッキーの名前は「超サブレ」(もはやサブレではないのだろうな、きっと)。さらに、食べたケーキは結構絶妙なところをついていて、東京にあるいかにもなケーキ屋より断然美味い。

どうやら、今後ちゃんとした店舗を構えようとしているらしいが、個人的にはギリギリのバランスで成り立っている今の状態が素晴らしいので、ずっと「ケーキや(仮)」のままであることを望む。

やっぱり、そこそこデザインとかの心得があったら絶対に出来ないであろうエキセントリックさには心打たれるし、カタルシスがある。そして、自分がこういうものに惹かれるのは、そこに何かを作ることの普遍性や真理のような、妖しさと艶めかしさや生々しさがあるからなのだと感じる。

こんなクールなアウトサイダーが地元にいるとは…。思いがけずケーキ屋に癒された休日。



No. 0062 | October 21th, 2018 | Yama

二日酔いとシグニチャーコート


オルトハウスのプロジェクトブランドLCDDで作っているシグニチャーコートというプロダクトがあります。
今日、さっと羽織って、手ぶらで出かけたんですが、気持ち良かったです。という報告です。



このコートは、オリジナルのパターンを元に改良を重ね、いろいろな素材や形を試しながら作り続けられているプロダクトで、袖は付いているんですが、袖ぐりが普通よりかなり大きくなっていて「着ている」というより、マントやブランケットのように「包まれている」感覚の着用感になっています。(気になる方、さらに詳しい説明を聞きたい方は、セイかヤマナカにお問い合わせください。)メルトン地のロングコートタイプのものもあるのですが、僕は薄手のショート丈タイプの「シグニチャーパーカー」を着ています。

毎日リュックで行動している僕にとっては袖ぐりの大きさが邪魔になるので、日常的に着ることが難しいのですが、手ぶらで羽織って出かけたときの、包容力というか守られている気持ちよさが、二日酔いだったこともあり、普段の何倍も強く感じられました。以前、「Ecape」というテーマでコレクションが作られましたが、「日常を取り巻く様々な事象から逃れ、つかの間の解放を求めて……」という説明の通り、ちょっと解放されました。二日酔いは治りませんでしたけど、シグニチャーシリーズならではの感覚だと思います。

汎用性のあるベーシックな服もいいけれど、強いイメージを形にした個性のあるモノは、人やシーンを選ぶけれども、ハマったときになんとも得難い気持ちになれるのだなと改めて思ったのでした。



No. 0062 | October 18th, 2018 | Koji

リセット

今、雑誌でデザインを担当しているページで使うために、鉛筆で手書きの文字を書いています。普段書き慣れている字体ではなく、不恰好で味のある、いわゆる“下手うま”な字を書きたいので難しい。

同じ字を同じように書いているつもりでも、微妙な角度やなんかの違いで全く表情が違って見えるので、何度も書いては比べてしまう。そのうちに今度は書き慣れてきて新鮮さがなくなり、少し置いてまた書くと新しさが戻っている。

人の感覚はほんの少しの間にいつのまにかリセットされてしまうから不思議だ。単純にリセットしているだけなのか、はたまた空白の間にも更新されているのかはわからないけれど、何度でも新しい感覚を持つことができるのは幸せなことだと思う。

そんなことを頭の片隅に置いておけば、期限が迫った物事も少しは楽観的に考えられるかも(?)とぼんやり思ってみたのでした。



No. 0061 | October 17th, 2018 | Sei

アイアム

先週末『アデル、ブルーは熱い色』を遂に観た。
前回の通信で書いたようにビガイルドを観たかったんだけど、Netflixにはなく関連映画で出てきたアデルを観た。
前から観たいと思っていて頭の片隅にあったのと、ジェンダーとかセクシャリティの話を友人としていたこともあって、良い機会だと思った。

フランス映画で、主人公のアデルが高校生のところから物語が始まる。
普通に学生がいっぱいいる校内で、何気無くみんなで喋っている中で、アデルの友人でストレート子たちが、レズビアンの疑いがかかったアデルを非難するシーンがある。いじめではない。

向こうのリアリティが少なからず詰まっている描写だろうと考えると、日本だとなかなか無いシーンだが、あって然るべきことなのかもというもやっとした違和感を感じた。

人のセクシャリティやジェンダーを否定すること自体は無意味な行為だと思うけれど、自分はこういう人間だ、という主張を、友人を否定し悲しませ喧嘩することになってもはっきりと言うのだ。
ちなみに主人公アデルはあまり自分の主張をしないタイプ。

どの国にも色んなタイプの人が共存していると思うけれど、主張を巡って友人であっても親であっても、それぞれが個として話ができるという状況は普通のことであるべきなのだと思う。

昨日web版のi-Dで北村道子さんのインタビューを読んだ。
トピックが”女性性”で、読みながら映画のことも思い出した。



No. 0060 | October 16th, 2018 | Shun

不思議な関係

先日情報が解禁されたが、11月にリリースされるシャムキャッツというバンドのニューアルバム用のアーティスト写真のディレクションを担当した。メンバーがKATAの展示に来てくれたことがきっかけで、何か出来ることがあればという感じで参加させてもらうことになり、アルバムのコンセプトやジャケットのデザインなどの話も聞きながら、フォトグラファーや撮影場所、衣装のイメージなどを決め、新しいアーティスト写真の撮影。一枚に絞るのは難しいくらい撮れ高が良く、メンバーも喜んでくれているみたいだし少しホッとしている。(ただし、現在公開中のティザームービーの最後の方に自分が映っていて、それがバンドの邪魔になっていないかが、いまだに気になっている。)

今回撮影をして新しい出会いもあったし、上記のように良い写真が撮れたので結果オーライではあるのだけれど、感じたことが2つあった。

一つは、いつまで経っても現場に慣れないこと。撮影などは日常的にある仕事ではあるけど、元々現場があまり好きではない方なので、いつもストレスというか人一倍緊張を感じる。関わってくれる人たちが優秀なので、結果的に良いものが出来ることがほとんどだが、それでもやっぱり「現場が好き!」とか「現場は楽しい!」という風にはなれないし、多分一生なれないと思う。自分が想像以上に集団行動が苦手だという事実を突き付けられるのも理由の一つかもしれない。

もう一つは、「バンド」というグループの不思議さ。シャムキャッツは地元の友達で結成されたバンドなのでちょっと特殊と言えば特殊なのかもしれないが、基本的にメンバー同士の仲が良いし、信頼関係のようなものを感じる。お笑いコンビとかも似たような関係性なのだろうけど、自分には絶対出来ないだろうなぁと思いつつも、やはり少し羨ましさも感じる。自分には出来ないから憧れるんだろうけど。そうだ、生まれ変わったらバンドマンになろう。

シャムキャッツに関しては、今後公開予定のMVにも衣装的な役回りで参加しているので、そちらも乞うご期待。



No. 0059 | October 14th, 2018 | Yama

東京競馬


競馬場に初めて行った。東京競馬場です。馬券を買ってレースを見るのは興奮したが、想像をはるかに超えた場内の広さと、建物の大きさだったのが一番驚いた。一日飽きずに過ごせると思う。ピクニックにすごくいいと思う。芝生にはもちろんだが、施設内の床や階段など、いたるところで床にシートをひいて場所を作っている人たちがいた。普通は邪魔になりそうな場所だが、スペースにかなり余裕があるためまったく邪魔だと感じない。むしろ微笑ましかった。ユートピアだと思った。空間に余裕があるということは豊かだと思った。行ったことのない方はぜひ行ってみてほしい。200円で入れます。



No. 0058 | October 13th, 2018 | Koji

ピンホール・ルーム

最近の少しずつ読んでいる本で『ホンマタカシの換骨奪胎』というのがあります。写真家のホンマタカシさんが古今東西の写真・映像・現代美術の技法や形式を真似て、自分なりにアップデートした作品を作りながら映像表現の世界を読み解くという内容です。

その中で気になったのが、カメラオブスクラの現象を利用して撮影する際に使うピンホール・ルームについて。真暗闇の部屋を作り、1ミリ程度の穴から光を取り込みリスフィルムに映像を焼きつける。技法はもちろんですが、この露光の時間がとても興味深いなと思いました。暗闇の中で少しずつ像が写っていくのを想像しながらじっと待っているはとても不思議な気分になるだろうなと。

なんだかその状況を想像すると羨ましくなり、夜に部屋の電気を消してみた。暗い中うっすら見えるものの輪郭は、感光途中の像のような曖昧さや秘めた可能性がありどきどきします。写真だとほとんどが真暗で何が写っているのか分からなくなってしまったのですが、かろうじて判別できたものがこちら。(暗いところで10秒くらい眺めるとやっと輪郭が見えてきます)少し、ピンホール・ルームの感覚に触れられたような気がします。
壁と写真

出窓

テレビ

電球

金魚鉢

ブラインド


No. 0057 | October 10th, 2018 | Sei

ほしがる心

山中くんの記事と少し重なりますが、先日『幽体の集め方 vol.2』というイベントに行ってきました。

出演者全員、自己主張が強い。トークとか抜きでパフォーマンスだけで伝わってくる強さ。人前でパフォーマンスする人はみんな自己主張が強いものではあると思うけれど、ちょっとレベルが違う。

ただそれは見ていてとても気持ち良く健やかなもので、表現が合っているか分からないがものすごく端的に自分の気持ちを言うと、元気が出た!そういう感じだ。

自己主張とはある種の欲望だと思う。言いかえると自己顕示欲という欲望は個性をかたちづくる源になるようだ。例えば”自分で考えたもの・つくったもの”を発信してその欲望を満たす場合、”自分で考えたもの・つくったもの”において自分度が何%なのかという純度によってもそこからかたちづくられる自分は違ってくると思う。

私自身は学生の頃と比べるとそういう欲望は小さくなっている。ただまわりの同業の人を見渡した時、そういう欲望を強く持っている人が多いかというとそうではない。むしろ少ないと思う。だからこそ、”幽体の集め方 vol.2”では、主演した全てのアーティストの方が自分度200%くらいある純度の高いパフォーマンスをしていると感じ、前述のような良い気持ちになった。

どちらが良い悪いという話ではないが、欲望が個性をかたちづくり彩るものである、ということは心に留めておきたい。

ソフィア・コッポラの『The Beguiled/ビガイルド 欲望の目覚め』は欲望が個性を作る様を描いた映画らしい。男女の情事によって生まれる女性の欲望をトピックにしたものなので、何かを発信して欲望を満たすとかではなく、もっと直接的で動物的なものだと思うが、近々観てみようと思う。



No. 0056 | October 9th, 2018 | Shun

新鮮さ

先日、久しぶりに六本木のSuper Deluxeにライブを観に行った。

『幽体の集め方 vol.2』という、タイトルからしてなかなかにヤバそうなイベントはSPANK HAPPYが出演するということもあって観に行ったのですが、観る前からかなり気になっていた、「イメージ」と人類の関係を表現するインプロヴィゼーション方法論「トランスフォーめいそう」を構築する〈たくみちゃん〉という即興ダンスのパフォーマンスをされている方が異彩を放ち過ぎていてヤバかった。一緒に観に行った勢井さんが「久しぶりに絶滅危惧種を見た」と言っていましたが、これには納得。

目の前で繰り広げられているパフォーマンスが強烈過ぎて、写真を撮るのを忘れてしまったことが悔やまれますが、たくみちゃんも含めてその日出演された人たちからは、何かから解放された幽体の「自由さ」が感じられるイベントだった。自分が良いと思うことをマジでやってる大人が放つパワーは半端ではない。若い才能に注目が集まるのは致し方ないことかもしれないど、年齢というより魂の新鮮さが大切だな、きっと。久しぶりに友達にも観て欲しかったと思える良い夜だったのでした。

No. 0055 | October 7th, 2018 | Yama

APPLE BALL

いろんなことにあてはまると思いますが、例えば一枚の写真があって、それを見た瞬間は特に何とも思わなくても、その写真の背景を聞いたとたん急に素晴らしいものに見えたりすることが多々あります。その逆で前情報なしに見たときは良いと思ったものが、説明を聞くとたいして良く思えなくなることもあります。

いま友人のフォトグラファーと写真集を作っていて、それは、その写真が旅行先の海外で撮られた、人々や動物、風景の何気ない写真で、特別に意識して撮られたものではないからなんですが、何回か会って写真を広げて話をする度に前回までとは別の視点を発見したりして写真の選び方や写真集の方向性が変わっています。

異国の旅の情緒を感じられるような写真集にすることも一つのかたちとして問題なく成り立つと思う。でも海外という場所に特別な意味を感じない写真も多く、個人的にそこに面白みを感じていて、いわゆる旅の写真という結論だけでは終わらないような、良く見えたり悪く見えたり、感じ方が固定化されない、いろんな意味でトリップできるような落とし所を模索中。



No. 0054 | October 3rd, 2018 | Sei

アンテナ

週末の夕飯時はNetflixで幽☆遊☆白書を観るのを楽しみの一つにしている。
子どもの頃は個々のキャラクターに思いを馳せて見ていたと思う。
そして子どもごころに教師の岩本の腹黒さが妙にリアリティがあってすごく嫌いだったのを覚えている。

この歳になって見返すと、魔界という魑魅魍魎の世界があった上で、そこをはるかに超えたレベルの魑魅魍魎の世界は人間界なんだぜ、というところをどの章でも謳っているのが面白い。仙水忍の章では、同じ人間に対して深く絶望し破滅の道を進む。
それでも、どんな絶望の果てにも希望を見出す、という展開が全ての章で結びとなっている。

おとなになってから積極的にアニメや漫画に触れるようになったのだが(子どもの頃は漫画がNGの家庭だった)、すごく面白い。表現手法が限られているので、世界観が妖怪とか火星人など素っ頓狂なものであったとしても共感できるストーリーを立てることで鑑賞者や読者をそこに引き込む、という構造な気がしている。

そもそも“共感できるストーリー”には問題提起が含まれている性質のものが多いし、絵として一から創り上げた強い世界観は実写よりもストーリーを明確に鑑賞者に届けることができる気がする。

そう考えると、アニメって超スペキュラティブデザイン?
攻殻機動隊なんかは完全にその領域に入っているのでは。

アニメや漫画が一にも二にも愛すべき娯楽であることは間違いないが、いつもより少し積極的な視点を持って日々の自分を振り返ってみると気づきがたくさんありそうだ。
画像:"幽☆遊☆白書"より



No. 0053 | October 3rd, 2018 | Koji
最近とても小さなことで、とても驚いたことがある。ある日ふと気が付くと、料理用に使っているヒマラヤ岩塩(石)から水が滴っていたのだ。石は湿り、下に水が溜まるほどに。なんだか神秘的で美しい光景に見えました。

調べてみると、岩塩は空気中の水分を吸収して自発的に溶ける性質があるそう。また一説では邪気を吸い取って浄化する際に水が出るとも信じられている。岩塩に限らず、昔から塩は悪を分解し自然に戻すと言われているが、この光景を見ると少し理解できるような気もします。

頭ではもちろん湿度の関係だと分かっているものの、その日以来、岩塩が呼吸する生き物のように感じるようになりました。そんな気になると水を排出する様子もなんだか自分が発散しているようで清々しい。先日の台風24号ではこれまでになく水溜りが出来ていて、驚きました。この現象を見ているとなぜか気持ちが高揚します。現時点ではうまく説明できずもどかしいのですが、この高揚感の原因であったり、塩の浄化作用の所以なりを、観察する中で自分なりに非科学的な解釈が出来たら面白そうだなと思っています。(どうでもいい…?)

なんだか中途半端でスピリチュアルっぽい話になってしまいましたが。。日常の中の思いがけない小さな発見から思考や妄想が広がることが多くあり、無限の可能性を感じる今日この頃です。





No. 0052 | October 2nd, 2018 | Shun

アジア

ベトナム料理の話とは関係ないが、昨今、「これからはアジアの時代だ」と言われている。(なんかずっと言ってない?てか、ちょっと前までアフリカの時代とか言ってなかった?もう終わったの?)最近発売されたSTUDIO VOICEの特集もアジアの音楽シーンを特集したものだったし、ファッションやアート、音楽などのカルチャーシーンでは良く目にする。

経済的に考えれば当然といえば当然だと思うが、それに合わせて文化なども本当にアジアが中心になっていくのだろうか。
もちろん、平成が終わり明日からは〇〇になりますという元号のようなものではないので、急にアジアの時代になるということではないだろうけれど、なかなか実感というかイメージができないなーと思っていたのだが、そもそも「中心がない」と言われるアジア的な思考からすると、アジアが中心になるのではなく、影響力は高くなりながらも世界の文化がフラットになっていくということなのかな?という考えに至った。

実際に中国や台湾、タイにシンガポールなどアジア各国の出身の人や行った人から話を聞くと、ほとんどと言っていいほど悪い話は聞かないし、皆が自由さがあって面白いと言う。今の日本に暮らしていたらどこに行ったって自由さは感じるのではないだろうかと言うこともあるが、やはりヨーロッパやアメリカとは違う空気はあるのだと思う。

前にも書いた三宅一生さんの服にしても日本的というようなことを超えてアジア的であるし(実際にインドの伝統生地を使った商品を使ったりもしている)、青木淳さんもヨーロッパで講演をすると、アジア圏の学生から「よくぞ言ってくれた」的なことを言われるという話をしていたように、原っぱ的な考え方はアジア的な感性なのでしょうね。それらも地域差はあるものの天候なども含めて類似した生活環境をバックグラウンドにして生まれ育まれてきた文化と考えれば自然なことなのだろうけれど。

現代の日本にはなくなってしまったような寛容さだったり、良い意味での適当さからは僕たちが思いもよらない発想やそれらが作り出す自由な空気は、行き詰まり、息詰まる環境に暮らす人々には新鮮かつ懐かしさを感じさせてくれるという意味では、可能性が広がっている。

No. 0051 | September 30th, 2018 | Yama

ベトナム料理屋「Kirikou(キリク)」のロゴ


ロゴをデザインした山口県の湯田温泉にあるお店Kirikou(キリク)に行ってきました。山口ではめずらしい、生麺を使ったおいしいフォーが食べられるベトナム料理のお店です。



観光地ではあるんですが、店主からは特別な場所ではなく、地元の人にたくさん来てもらいたいという話がありました。
多くの人が想像する、中国料理やフランス料理のお店っぽいイメージってあると思うんですが、そうことを意識して、ベトナム料理屋らしさと、なんだか昔からあるような親近感をもってもらえたらいいなと思って、取り組みました。例えば、きたなシュランではないんですが、そういうお店で看板がすごく変なデザインなのに妙に愛おしく感じることってありますよね。そういうものになればいいなと。もちろん単に古風なものではく。
セイさんが前の投稿で、「常に新しくて常に古いという、言葉としては相反するものをどの時点においても全てのものが内包しているとすると、なにやら愛おしさみたいな気持ちが入ってくる。」と書いていましたがそういうことなのかなと思いました。セイさんどう?

かっこよかったり、おしゃれだったり、かわいかったりというようなデザインは意外と簡単にできてしまうものなんですが(そこにどうやって個性をプラスするのかっていうのが本当はまた難しいんですけどね)、今回はその素人っぽさの塩梅が難しくて苦労しました。蓮の花の絵をデザインに入れて欲しいという要望があったんですが、どうしても素人っぽすぎたり、逆にデザインを感じさせてしまうような印象になってしまいそのバランスに苦戦していたんです。

そんなある日、ベトナムに行っている店主とやりとりしていると、ある写真が送られてきました。それは観光客相手にスタンプを彫っている職人が彫った蓮の花のスタンプでした。それを見た瞬間負けた。。と思いました。これ以外にありえないぴったりのデザインでした。店主はそういうつもりは全くなく、たまたまノリで作ってもらったそうなのですが、すぐにこれを使いましょうと説得しました。結果、いい具合に仕上がりました。

自分のコントロールではない、偶然をキャッチして味方にするのも大事なことですが、柔軟にコントロールできるように精進しないといけません。



店内はカウンターだけなのに広々として居心地が良く、料理はどれも素朴で近くにないのが悔やまれるくらいおいしいです。お酒もゆっくり飲めます。音楽好きの店主で不定期でDJイベントも開催されています。みなさま山口に行った際にはぜひ。


No. 0050 | September 28th, 2018 | Koji

ショートトリップ

またまた映画の話になりますが、先日『イレイザーヘッド』と『エレファントマン』の2本立てを観てきました。これまで観たいと思いつつ、内容が重そうで後味も悪そうなのでなかなか手が出なかったのですが、ちょうど早稲田松竹でデヴィット・リンチ特集がやっていたのでこれを機に。

主人公のヘンリーは恋人のメアリーから奇妙な奇形の赤ん坊を出産したことを告白される。彼女と結婚し新婚生活を始めるが、赤ん坊の異様な泣き声にメアリーはノイローゼになり、出て行ってしまう。残されたヘンリーも次第に精神が崩壊していく。(イレイザーヘッドあらすじ)

『イレイザーヘッド』で完全にやられました。知らないうちになぜか感情移入していて、気付いたときにはどっぷり闇に浸かっている感覚でした。闇は悪ではなく、ただの闇であり虚無なので恐ろしい。

心象を表現したものには強い力があると感じました。内容云々ではなく絶対的な世界があればそこに引きずり込まれてしまう。そして、心の深いところでかすかに繋がりを感じてしまった気がする。『イレイザーヘッド』が今だにカルト的人気がある理由がなんとなく分かったような気がします。そんなリンチ映画で闇にトリップした3連休最終日でした。


in heaven everything is fine
天国ではすべてがうまく行く




No. 0049 | September 27th, 2018 | Sei

ニュースタンダード

最近は、とあるコンペに応募すべくドイツ人の友人と頻繁に会って話をしている。
夏にも一度コンペに応募した際、参加してもらった。

同僚だった頃より会う回数は減っているが、コンペを通して同じ目標に向かってディスカッションしたり作業していることで格段にコミュニケーションが深くなってきていることを実感する機会が多く、それは雑談であっても同じで、実感するたび前の自分を更新できている気がする。

マッタ・クラーク展で展示されていた連続する写真を見た後に目の前にいたおじさんがおならをした時は、二段階くらい自分が更新された感があった。

動物も物も1秒前とはみんな変わっている。5秒前、10秒前、3日前、一か月前の自分のスタンダード(基準や標準)は誰かと話して本を読んで楽しいことや悲しいことがあって、建物なんかは雨に降られて紫外線を浴びて誰かが壁を触ったりして、全ては少しずつ変質している。無意識であっても自らのスタンダードを微調整して更新を続けている。

常に新しくて常に古いという、言葉としては相反するものをどの時点においても全てのものが内包しているとすると、なにやら愛おしさみたいな気持ちが入ってくる。なんともまとまりのない文章になってしまったけれど、スタンダードの更新を意識的に行えば可能性は無限だなあと思うのである。
画像:ゴードン=マッタ・クラーク展にて



No. 0048 | September 25th, 2018 | Shun

野生の思考



NETFLIXやhuluなどのサービスが普及して少なくなっているのかもしれないですが、結構地上波のテレビが好きです。ザッピングしていると思いがけず面白い番組にあたるのが楽しい。

先日もいつもと同じようにテレビを眺めていたら、好きな番組の一つである『SWITCH INTERVIEW』という番組に俳優の井浦新さんとサバイバル登山家の服部文祥さんが出演されておりました。
井浦新さんのマルチな活躍は言わずもがなですが、何年か前の情熱大陸に出演された前後からものすごく興味を持っていた服部文祥さんの登場には結構アガりました。

対談の中でも服部さんは金言を連発しておりましたが、山に入りサバイバルする環境に身を置くと生きていることの意味について考えざるを得なくなることなどを話していました。その中でも自分と自分以外の境界についての感覚が先鋭化するらしく、皮膚の内外でハッキリと境目があることを認識するようになると。服は第二の皮膚なんてことも言われますが、文字通り身体の感覚で世界を知覚するという経験は普段都市に暮らしていると鈍化していることを改めて思い知らされるわけです。

服部さんはそういう生活を目指してきたわけだから否定はしないけど、食べるものなどに対して思考停止していることは自分の中で醜いことだと言い切り、答えがあるのかわからないけれど自分は思考することを止めたくないと。先ほどの皮膚感覚も同様ですが、身体を使って思考し続けることは根源的だろうし、服部さんと同じ環境でというのは難しいかもしれないけれど、出来る限り意識したいと思う。

それと、服部さんはサバイバル登山にテントを持っていかず、タープを屋根代わりにし、葉っぱを敷いた上に寝ているのを見て建築の始まりは屋根と床なんだろうという考えに至りました。建築史家の藤森照信さんが建築の始まりには火があって、火を雨風から守る為に屋根や壁が出来たというようなことを言っていたけど、感覚的に壁は最後だろうなと思ったのでした。

ただ、今回の『SWITCH INTERVIEW』のハイライトは、番組の最後の最後に高円寺の焼き鳥屋さんで服部さんが放った「酒を飲まずに酔わないとね」という言葉が一番刺さった。

※写真は資生堂の花椿のブックインブック服部文祥さん監修の『URBAN SURVIVAL BOOK』です。



No. 0047 | September 20th, 2018 | Koji

一瞬の歪み

ジム・ジャームッシュ監督の映画『Paterson』を観ました。昨年公開された際に映画館で観たのですが、ふともう一度観たくなり。
ニュージャージー州のパターソンに住む、バス運転手で日々詩を書くパターソンの一週間の話。朝起きて仕事へ行き、夕方には家に帰る。夕食の後に犬の散歩に行き、バーで1杯ビールを飲む。ゆっくりと規則正しくループする毎日だが、同じようで違い、たまにおかしなことも起こる。

映画の随所でパターソンの詩が詠まれるのですが、これがとても心地良く沁みる。恥ずかしながらこれまでほとんど詩を読んでこなかったので、詩に共感し癒されたのは初めてかもしれないです。(作中オリジナルの詩はロン・パジェット作)

映画の中でとても気になったのが、ループする日常の中に生まれる一瞬のズレというか歪みのようなもの。ネガティブなものではなく、奇妙な必然性を持った奇跡のような一瞬。それは映画の中だけでなく現実でも確かにあるのだけど、気付かないことも多いし、気付くとともに忘れてしまっているような気がします。その一瞬をなにかしらの形で集められたら面白そうだなと思う。詩はその一瞬を想い起すことのできる言葉でもあるのだなと感じました。


写真はブルックリンのガラクタ屋で買った、誰かが撮ったポジフィルム。大きい段ボール箱に山ほど入っていて、6枚で2ドルほどだったような。なんとなく映画の感覚とこれらの写真を眺めるときの感覚が似ている気がする。知らない人のレンズ越しに見る日常は発見が多くあって面白く、切り取られた一瞬以外にも想像が膨らみます。今になってもっと買っておけばよかったと後悔!



No. 0046 | September 19th, 2018 | Sei

ゴードン・マッタ=クラーク展に行ってきた!

建築を学んだマッタ=クラークの活動は多岐にわたる。

そもそも建築家という職業は昔も今もどの世界でも権威的なものだと思う。
だから社会的なルールやシステムは建築に取り込みやすく、そうするとそれらはより強固になって私たちを囲う。
すでに私たちはそういうルールとかシステムに則って生活しているのだろうけれど、そういった変化を目の当たりにしたマッタ・クラークの、ウインドウ・ブロウ=アウトという活動がとてもクールだ。

窓を割りまくる、それだけ聞くと学校の不良みたいかもしれないけれど、閉鎖性に対するアンチテーゼとして、しかも煉瓦造りの巨大な高層アパートの整列した窓のガラスが全部なくてすかすかでツーツーになってるんだからかっこよすぎる。

とにかく!彼の展示を見て一番感慨深かったのは、彼の遺したものは作品というより活動記録だというところ。一つ一つの活動が全部繋がっていて、しかもそれらは全て外に向けられた活動だ。ある一点で完結せず、共感した人が引き継いだり別方向からアプローチできるものだと思う。

展示のために早稲田大学建築学科と共同で制作されたものがいくつかあったが、それらも展示物としてとても良いものだったと思う。共同制作と呼ぶにふさわしい本気の制作だと感じたし。こんな素晴らしいことを学生時代に体験できるなんて羨ましさでいっぱいだよ。。
ちなみに”あなたのまちのGMC(ゴードン・マッタ・クラーク)”という今っぽいインスタイベントも会期中に開催されていた。

ゴードン・マッタ=クラーク展のように、共同制作のような要素が増えてくると、開催する場所のオリジナリティも出るし、リアルな広がりや浸透があって楽しくなるのではないかという部分でも可能性を感じた展示だった。
"ゴミの壁" 早稲田大学建築学科によるゴードン・マッタ=クラーク展での共同制作



No. 0045 | September 18th, 2018 | Shun

当たり前


ここのところ人と会うことが多い。仕事ではなくプライベートで。多くは仕事を通じて知り合った人たちも多いのだけれども、改めて飲みに行ったりすると印象が変わったり、考えていることが似ていることがあって、ちょっと感慨深いものもある。

学生時代など一定期間に時間や空間、体験を共有することによって関係が深まるというのが一般的だし、気が置けない友人とはそういう人のことを指す場合が多いだろう。

でも、そういった関係じゃないところで不意に距離が近くなったことを感じられる人との繋がりは服を作ったりしてきたことの副産物でもあると思うし、モノやコトは何であれ、やはり何かを作っている人が好きだということを改めて感じられた時、主にわかってもらえないことに起因して(勝手に)感じていた孤独感が少し消えているような気がする。(←そんな深刻な話ではないけどね)

そんなところから仕事に発展したりするとまた関係性に変化があって面白いし、もちろん仕事は仕事だけど、遊びの延長線上にある仕事をしたい。

見た目とは裏腹に人と話をすることは好きなので、これからも出来るだけたくさん人に会おうと思う今日この頃なのでした。

No. 0044 | September 16th, 2018 | Yama

ビーマイベイビー


世田谷文学館にて開催中の「ビーマイベイビー Mitsuo Shindo Retrospective」という展覧会に行きました。信藤三雄さんという主にレコード・CDジャケットのアートディレクションで活躍されている方のこれまでのデザインワークを展示した回顧的な展覧会です。

グラフィックデザイナーを志すきっかけを少なからず(無意識のうちに)与えられた、アートワークの数々で埋め尽くされていました。(僕の場合は主に、ブランキージェットシティーの一連のそれです。。マイラバとミスチルもかなり記憶に焼き付いています。。)そこには確かに憧れの「アートワーク」があるのだけれど、個人的には当時の見方とはまた違った「デザイン」を再確認することができました。

経験を重ね、知識が増たり技術的にこなれてくると、自分の幅の中で完結できることも増え、試行錯誤や情報収集をしなくなったり、情報をきれいに取り繕う様なデザインのためのデザインをしているという状況に陥ってしまうこともあると思います。(そこは意識していないとホント怖いなぁと思いました。あたりまえと言えばそうなんですけどね。)

会場はいわゆるデザインの展覧会の客層とはまたちょっと違った、おそらく年齢も職業も多種多用な人たちで溢れかえっていて、その多種多様な人たちが、ただ紙に刷られたそのモノを各々の感情で、食い入るように見つめているその空気を感じながら、ある種の「正しいデザイン」を再確認することができたのです。そして、僕が真面目にデザインし続けても、到底人に届けることができないであろうそのグルーヴに圧倒されながら、(非常に個人的に生きてきてしまったが)今の一人ではない状況に可能性を感じたのでした。


実物大のポスターやレコードジャケットって、ネットの画像や本で見るのとやっぱ違いますね。あの空間でお酒が飲みたいです。。



No. 0043 | September 13th, 2018 | Shun

GMC

知人に勧められた国立近代美術館で開催中のゴードン・マッタ・クラーク展へ。

なぜ今までちゃんと見てこなかったのかと思うくらいに、今考えているようなこととリンクしていることに驚きを隠せない。
先日も書いた磯崎新と青木淳の対談の中にあった磯崎さんの「決定的な拒否はだいたい始まりを反復している。つまり始まりから始めるということは、かつてあった始まりの反復に過ぎない。そういう意味でみんな似ている。」という言葉が頭をよぎる。

「空洞」の話とは少し異なりますが、建築的な視点を持ちながら(ゴードン・マッタ・クラークは大学で建築を専攻していた)アート、ストリートカルチャー、食に至るまでを横断し、(主にアーティストの)コミュニティー創出に貢献する方法を模索した軌跡は40年も前のこととは思えない新しさと現代社会に対する批評とも感じることが出来るものものでした。

特に《壁=紙(Walls Paper)》や《Anarchitecture》、《FOOD》などはその発想や表現方法に共感を覚えるほど。
今自分たちが考えていることは、自分たちより前に考え形にしている人がいることも多いけれど、同じような意識や疑問に端を発しても実現すべきモノやコトは少なからず異なるはず。マクロで見れば反復ではあるだろうけど、全く同じ線をなぞることは不可能かつ無意味なので、自分たちなりの解釈と方法で歩を進めたい。

そういう意味でも、まだ咀嚼しきれていない部分も多々あるけれど、ゴードン・マッタ・クラークの活動は少なくとも僕個人にとっては非常に示唆に富んだものであることは間違いない。

9/17(月)までですが、興味がある方は是非〜。
No. 0042 | September 11th, 2018 | Koji

秋雨前線

秋雨前線が南下して、東京は涼しい現在23度。(ところで秋雨前線っていい響き)1日でころっと気温が変わり、季節と体の感覚がよく分からなくなる。昨日は夏で今日は秋。入れ替わった空気にあたり、半袖シャツから出る腕が冷たいです。

日本列島はいたるところで自然災害に見舞われていて大変だ。(そういえば天災って便利な言葉)どこで何が起こるか分からない。このところ台風も地震も東京をかすめていくけど、いつ直撃するのでしょう。(ちなみに今日は更新したパスポートを取りに行きました)

それにしても今日は眠くて眠くて仕方がない。すべて秋雨前線のせいにしよう。



No.0041 | September 10th, 2018 | Sei

ドラマチック

"「建築」への眼差し 現代写真と建築の位相" を見に行った。いろんな写真家が建築を題材にして撮った作品を展示しており、どの写真も写真家の個性で建築を切り取っていてすごくかっこ良かった。
建築家のウェブサイトの作品ページによくある説明的な無味無臭の竣工写真とは似ても似つかないドラマチックな空気があって、建築物が風景になっておらず、かけらも写っていない人や動物の気配、そして撮影時に吹いていたであろう風とか、生々しさを感じられる写真ばかりだった。
中でもトーマス・ルフの写真が個人的には新鮮に感じてズキュンだった。



しかし、今回建築倉庫を含む寺田倉庫のエリアで感じた違和感があった。なんか見たことある感。もともと倉庫が立ち並んでいた場所を建物だけでなくエリアごとリノベーションし、倉庫は改修して飲食店になっている。人の出入りも多く、倉庫街の雰囲気を一変したであろうことを考えるととても面白いことで成功しているプロジェクトだと思うけれど、倉庫のスケール感は特に活かされておらず、唯一無二でめっちゃ特殊であるはずの場所性が薄らいでいるように感じた。それこそ、よくある典型の竣工写真的な、明るい雰囲気でなんか楽しそうだし悪くないよねっていう感じ。

そういう中で、著名な写真家の方たちが映し出したようなドラマチックな空気を生まれやすくする場所や建築、ものを提案していければなあと思う。ドラマチックなものがあることを思い出せる場所でも良いのかもしれない。典型的なエリアの中で開催されていた異型の素晴らしい作品たちを見てそう思った。



No.0040 | September 6th, 2018 | Shun

空洞です


ゆらゆら帝国の傑作アルバムのタイトルではありません。(いや、関係あるかもしれないけど。)
全てはバラバラのようで、実は全部繋がっている(かもしれない)と思ったのが「空洞」だったのです。

最近当欄に頻繁に登場する青木淳さんと彼の師である磯崎新さんの対談の中に、イッセイミヤケとマルタン・マルジェラについて言及している箇所を発見し、小躍りしそうになるのに堪えながら読み進めていると、青木淳さんは東京都現代美術館で開催されていたイッセイミヤケの展示を見て、「衣服は一枚の布からできているという根元的なところに戻って衣服を再構成しようとする。それは、自分がすでにそこにいないある懐かしい姿勢のようにも思われました。」とし、さらに「白紙に戻ってつくれる、新しいものがつくれるっていう、あるオーソドックスな時間感覚がある感じがしたんです。」と話し、磯崎さんはそれに賛同しながら、三宅一生と倉俣史郎、宮脇愛子の作品は「空洞」ということでくくることが出来、「本来日本では中が密実な柱より空洞の柱のほうが尊重されていた」という記述が。それを読んで、先日の展示にも参加してくれたおさないさんも同じようなことを話してくれたことを思い出しながら、展示以降おぼろげに考えていた服と空間についてのことが少しクリアになった気がした。

なんとなく考えていることが近いような気がするなと思いながらも、主にヴィジュアルのテイストが好みではないという食わず嫌い(内容はおそらく好みなのがわかっていながら画が好きじゃなくて読んだことがないジョジョの奇妙な冒険シリーズとほぼ同じ)で、ずっと敬遠してきてしまった三宅一生について、やはりちゃんと調べないといけないなと反省と後悔が押し寄せる。
最近(と言ってもここ1年くらい)、BAOBAO(あの三本線がトレードマークのブランドがモロパクリしたのは良いのか?)ではなく、PLEATS PLEASEを着ている若い人(外国の方も含めて)を見かけることが多くなった気がするのは、気のせいだろうか。

とういうことで、空洞でした。



No.0039 | September 5th, 2018 | Yama

セプテンバー・ラブ

自分で作ったオルトハウスのマーク、オルトくんですが、なんとなく犬だと思っていたんですが猫にも見えます。何に見えますか? 秋のオルトハウス通信のサムネイルは、フォールする文字とさんまを追いかけるオルト君です。そのままですね。でも、さんまよりサバが好きです。前回の投稿にある「あーうれしい まる子はしあわせだよ」って最高に心がリラックスする情景ですね。誰かがそう感じるものを死ぬまでに1個でも作りたいです。



No.0038 | September 4th, 2018 | Koji

おどれポンポコリン


さくらももこさんの訃報を聞いて残念な気持ちです。そして久しぶりにちびまる子ちゃんが読みたくなりました。

愛すべきまる子の、ぐうたらでへりくつばかりでピュアな精神は最高に面白くて、救われる。漫画でくすくす笑いが止まらなくなることなんて他にないなぁと思います。

あたり前のことですが、作家が亡くなっても作品が残り続けるってすごいことですね。死んでもなお誰かに発信することができる。作品に限らず、些細な小さいこと1つでも世に残すことができたらいいなと思いました。

なんでもかんでも みんな
おどりをおどっているよ
おなべの中から ボワッと
インチキおじさん 登場

*いつだって わすれない
エジソンは えらい人
そんなの 常識 タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ おへそがちらり
タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ おどるポンポコリン
ピーヒャラ ピ お腹がへったよ
あの子も この子も みんな
いそいで 歩いているよ
でんしんばしらの かげから
お笑い芸人 登場

いつだって 迷わない
キヨスクは 駅の中
そんなの 有名 タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ ニンジンいらない
タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ おどるポンポコリン
ピーヒャラ ピ ブタのプータロー

*繰り返し

『おどるポンポコリン』
歌手:B.B. クイーンズ
作曲:織田哲郎/作詞︰さくらももこ



No.0037 | September 3rd, 2018 | Sei

解離

10日ほど前に幕を下ろした”Pack-age”の打ち上げが今週金曜日にあります。
※”Pack-age”は8/17~21まで恵比寿リキッドルーム内のKATAtokyoで行った企画展示です。

企画展示をやってくれないかと声をかけてくれた旧知の妹的存在、来海(きまち)さんから紹介してもらったおさないひかりさんの作品を、LCDDの洋服シグニチャーシリーズの向かいに展示させてもらい、展示期間中、来客の合間に彼女と色々おしゃべりをしました。
植物の種の話に始まり、食物として改良された果物や野菜の歴史、カカオの実のなり方やベー、とかたわいもないけど、興奮する話をしました。

最終日の前日におさないさんが、「今回の展示で一緒に展示されている洋服のパターン(型紙)を見て表と裏の関係が気になってきてる、表が裏になったり裏が表になったり..」と話し始めた時、私は嬉しいが爆発して、ドッカーンって感じの衝撃に見舞われました。
なぜかというとそもそも洋服に興味を持ったきっかけが建築においての表と裏ってなんぞやというところからその関係性を洋服でアウトプットしてきたという経緯があったからです。

”Pack-age”では、一見バラバラに見えるかもしれないけれど、考え方や方向性などの部分でつながりがあるものを同じ空間で展示しました。展示に来てくれた人はまずみんな口を揃えて、どういうことなの?と聞いてくるのですが、説明すると腑に落ちたとかスッキリしたとか言ってくれる人がほとんどで、洋服と土器を向かい合わせて展示していたことを、何も知らないお客さんの気分になり客観的に捉えるとこの流れは結構面白いことかも。

バラバラなものだと思っていたものにあるつながりを見出すことで、点と点が繋がって線になるんだけど、展示が終わると線は点と点に解離します。でも、展示中に、点と点そして線をよーく見てたら新しいことに気づいたから、またいつか集合するときにはもっと強くて大きな点になっている、あるいはそういう点を作れるようになっている。

乖離ではなく解離。そういう代謝が活発に生まれるような場所をつくるということににすごく可能性を感じた、おさないさんとのおしゃべりの一端でした。
そしてこの一連のことを自分なりに整理できたのは、展示後に強く惹かれた青木淳さんの著書”フラジャイル・コンセプト”という、私にとって新しい点のおかげでもあります。結構前に見た時はなぜかスルーしたのに、今回は出会うべくして、くらいの勢いで惹かれたのは不思議だけどとても良い体験です。
Althouse | Design Group of Graphic, Architecture and Clothing